2009年12月17日

<年賀状>受け付け開始…郵便事業会社がサービス拡充(毎日新聞)

<年賀状>受け付け開始…郵便事業会社がサービス拡充(毎日新聞)

 師走も半ばの15日、郵便事業会社が年賀状の受け付けを始めた。東京都内の京橋郵便局であった受け付け開始セレモニーでは、人気俳優の小栗旬さんが直筆の年賀状を投函(とうかん)。「お早めの投函を」とPRしたが、同社の狙いはそれだけにあらず。「年賀状を送りましょう」と必死だ。1999年用の41億9544万枚をピークに減少傾向が続く年賀はがきの販売枚数に歯止めをかけるべく、あの手この手を打っている。【望月麻紀】

 ◇正社員で「元日配達」

 09年用年賀はがきの販売枚数は前年比2.0%減の35億4564万枚。10年用の発行枚数は09年より5.8%少ない38億9777万枚だが、すべて売り切るのは困難とみられる。同社は例年、上半期が赤字で、下半期に年賀はがきの販売で黒字を確保しており、売れ行きが業績を左右する構図だ。

 年賀状離れの原因は、インターネットや携帯電話の普及で、電子メールに取って代わられたため。個人情報保護の意識の高まりで、同級生の住所録がなく、子どもたちが年賀状デビューの機会を失っているという事情もある。

 そこで同社はネット普及を逆手に取って、ネットで年賀状を作成し、送るサービスに力を入れている。

 メールアドレスしか知らない知人にも、年賀状が送れるサービスを展開。前回までは会員制サイト「ミクシィ」の会員向けで、167カ国から約70万枚の利用があり、うち2割が年賀状初心者の利用だった。

 好評につき今回は、会員以外にも利用対象を広げた。差出人が指定したメールアドレスにサービス提供者が「年賀状を受け取りますか」と意向を尋ね、受け取り希望者から住所や名前を聞いて年賀状を送る。ミクシィでは今回、広告付きの無料年賀状もお目見えし、1万8000通すべてが予約済みだ。

 専用サイト「郵便年賀.jp」では、約1000種類のデザインを用意した無料の年賀状作成ソフトを提供。年賀はがきの通信販売や、選んだデザインでの印刷も受注している。

 今年は新たに、差出人のメッセージや正月にちなんだ音楽などをバーコード化。それをはがきに印刷して送り、受取人がバーコードを携帯電話で読み取ると、携帯から音声が流れる新サービスも始めた。

 また「元旦配達」の強化による信頼回復も目指す。

 民営化直前の07年年賀状では、集配方法の変更で混乱が生じ、約5000万通の配達が遅れた。その後、新集配方法は定着したが、さらに今回は原則、正社員が配達する。自転車に乗ったアルバイトが配るよりも、配達ルートを熟知して中型バイクも乗りこなす正社員が配る方が、効率が良いことが判明したという。

 日本郵政グループは、保養宿泊施設「かんぽの宿」の売却問題が表面化し、政権交代で西川善文前社長が辞任し、郵政民営化見直し作業が本格化するなど、今年は激動の1年になった。同社商品企画担当の西村哲係長は「ネット時代だからこそ、リアル(実物)な郵便が届くうれしさを、年賀状で気づいてもらいたい」。ど真ん中の本業で光明を見いだしたい考えだ。

【関連ニュース】
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2009年12月16日

留守居

留守居(るすい)は、江戸幕府および諸藩に置かれた職名のひとつ。御留守居とも呼ばれる。諸藩の江戸留守居役は御城使とも言われ、江戸武鑑でもほぼ『城使』と表記される。但し、後述のように徳川御三家の江戸留守居は『城附』と表記される他、江戸幕府の老中や側用人などの要職者が藩主である藩の場合は『公用人』と表記される例外はあった。 幕府公認の留守居組合をつくって情報交換をしており、いわば諸藩の外交官であった。 なお少数ではあるが藩主不在中の江戸藩邸の警備責任者たる留守居と、連絡折衝役たる御城使を分けて設置する藩も存在した。留守居の副官・補佐役を留守居添役と呼ぶことが多い。幕府の留守居幕府における留守居は、老中の支配に属し、大奥の取り締まりや通行手形の管理、将軍不在時には江戸城の留守を守る役割を果たした。役高は5,000石で旗本から選任され、旗本で任じられる職では最高の職であった。初期はまとめ役である「大留守居」が設置され、旗本でも最高位の格式が与えられた。だが、将軍が江戸城から外出する機会が減少した事と幕府機構の整備による権限委譲によってその地位は低下して、元禄年間前後には長年忠勤を尽くした旗本に対する名誉職と化した。なお、似たような名前の職に留守居番(るすいばん)がある。これは留守居と同様老中に属し、宿直により大奥の警備、奥向きの用務を取り扱った。概ね1000石の旗本が任じられた。留守居とは同僚ではあるが、直接上下関係はなかった。諸藩の留守居多くの諸藩留守居は物頭級(小藩にあっては番頭級)の有能な家臣から選ばれた。また、一部の藩では家老、用人、側用人が兼務する場合もあった。なお、江戸武鑑上では全ての藩で用人より下座扱いである。留守居は藩主が江戸藩邸にいない場合に藩邸の守護にあたったほか、藩主が江戸在府中であっても御城使として江戸城中蘇鉄の間に詰め[1]、幕閣の動静把握、幕府から示される様々な法令の入手や解釈、幕府に提出する上書の作成、を行っていた。更に江戸時代は「礼儀三百威儀三千」とも言われるほどで、前例に従って落ち度のない事が第一と考えられており、それに資する先例を捜査するために留守居組合[2]にて他藩の留守居と情報交換を行った。また自藩の本家(本藩)・分家(支藩)との連絡・調整に当たるのも留守居の役目であった。幕府が諸藩の留守居役による暗躍・工作活動を嫌い江戸城登城を禁止した時期も数次に及ぶが、不便であるためまたすぐに解禁されるなどしていたことは、その微妙な立場を物語っている。留守居の情報交換は藩の財政を無視して遊郭や料亭などで頻繁に行われたため、財政難に苦しむ各藩の国許や勘定方からは怨嗟の眼差しで見られた。なお、京都・大坂・長崎に屋敷を持つ諸藩ではそれぞれに留守居が置かれることが多かった[3]。脚注^ 徳川御三家の留守居は城附と呼ばれ、一般の大名家留守居と異なり、毎日江戸城御殿に詰める特権を有し、表向のうちでも中奥に近い場所に部屋を与えられていた。^ 留守居組合には、同席組合のほか、大名の親類関係による近親組合や江戸屋敷の立地による近所組合などが存在した。^ 西国諸藩が長崎の蔵屋敷に置いた留守居は聞役と呼ばれ、当時唯一の海外の窓口であった長崎で情報収集や国元との連絡等を務めた。 「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%99%E5%AE%88%E5%B1%85」より作成カテゴリ: 江戸幕府 | 藩隠しカテゴリ: 日本の歴史関連のスタブ項目留守居(るすい)は、江戸幕府および諸藩に置かれた職名のひとつ。御留守居とも呼ばれる。諸藩の江戸留守居役は御城使とも言われ、江戸武鑑でもほぼ『城使』と表記される。但し、後述のように徳川御三家の江戸留守居は『城附』と表記される他、江戸幕府の老中や側用人などの要職者が藩主である藩の場合は『公用人』と表記される例外はあった。 幕府公認の留守居組合をつくって情報交換をしており、いわば諸藩の外交官であった。 なお少数ではあるが藩主不在中の江戸藩邸の警備責任者たる留守居と、連絡折衝役たる御城使を分けて設置する藩も存在した。留守居の副官・補佐役を留守居添役と呼ぶことが多い。幕府の留守居幕府における留守居は、老中の支配に属し、大奥の取り締まりや通行手形の管理、将軍不在時には江戸城の留守を守る役割を果たした。役高は5,000石で旗本から選任され、旗本で任じられる職では最高の職であった。初期はまとめ役である「大留守居」が設置され、旗本でも最高位の格式が与えられた。だが、将軍が江戸城から外出する機会が減少した事と幕府機構の整備による権限委譲によってその地位は低下して、元禄年間前後には長年忠勤を尽くした旗本に対する名誉職と化した。なお、似たような名前の職に留守居番(るすいばん)がある。これは留守居と同様老中に属し、宿直により大奥の警備、奥向きの用務を取り扱った。概ね1000石の旗本が任じられた。留守居とは同僚ではあるが、直接上下関係はなかった。諸藩の留守居多くの諸藩留守居は物頭級(小藩にあっては番頭級)の有能な家臣から選ばれた。また、一部の藩では家老、用人、側用人が兼務する場合もあった。なお、江戸武鑑上では全ての藩で用人より下座扱いである。留守居は藩主が江戸藩邸にいない場合に藩邸の守護にあたったほか、藩主が江戸在府中であっても御城使として江戸城中蘇鉄の間に詰め[1]、幕閣の動静把握、幕府から示される様々な法令の入手や解釈、幕府に提出する上書の作成、を行っていた。更に江戸時代は「礼儀三百威儀三千」とも言われるほどで、前例に従って落ち度のない事が第一と考えられており、それに資する先例を捜査するために留守居組合[2]にて他藩の留守居と情報交換を行った。また自藩の本家(本藩)・分家(支藩)との連絡・調整に当たるのも留守居の役目であった。幕府が諸藩の留守居役による暗躍・工作活動を嫌い江戸城登城を禁止した時期も数次に及ぶが、不便であるためまたすぐに解禁されるなどしていたことは、その微妙な立場を物語っている。留守居の情報交換は藩の財政を無視して遊郭や料亭などで頻繁に行われたため、財政難に苦しむ各藩の国許や勘定方からは怨嗟の眼差しで見られた。なお、京都・大坂・長崎に屋敷を持つ諸藩ではそれぞれに留守居が置かれることが多かった[3]。脚注^ 徳川御三家の留守居は城附と呼ばれ、一般の大名家留守居と異なり、毎日江戸城御殿に詰める特権を有し、表向のうちでも中奥に近い場所に部屋を与えられていた。^ 留守居組合には、同席組合のほか、大名の親類関係による近親組合や江戸屋敷の立地による近所組合などが存在した。^ 西国諸藩が長崎の蔵屋敷に置いた留守居は聞役と呼ばれ、当時唯一の海外の窓口であった長崎で情報収集や国元との連絡等を務めた。 「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%99%E5%AE%88%E5%B1%85」より作成カテゴリ: 江戸幕府 | 藩隠しカテゴリ: 日本の歴史関連のスタブ項目

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posted by タケナカ at 18:24| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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